湯島の思い出
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3ヶ月弱だったが東京で暮らしていたとき、湯島天神の隣に住んでいた。部屋を探す時間が1日しかなく、条件の合う物件がそこだけだったからだ。
神社の隣で暮らすのは、なかなかけったいな経験だった。まずは環境音楽というのか、なんというのか。朝の6時に生の大太鼓が鳴り響く。そして、多くの正時には雅楽の演奏が行われる。おそらく祈祷や婚礼に合わせて行われるのだと思うが、名の知れた神社は客が多く頻度も高い。朝から夕方まで、雅な音を愛でながら風流な心持ちで過ごすわけである。ときおり高価な線香の香りも漂ってきて。
その浮世離れした雰囲気が最高潮に達したのは、5月下旬に行われた例大祭(れいたいさい)でのこと。折しも今年は2年に1度の神幸祭(しんこうさい)、4年に1度の町会神輿の連合渡御(とぎょ)が重なる年だった。
祭りの朝、5時過ぎから神社の脇に屋台の設営が始まる(眠れない)。白装束や法被をまとった人、馬に乗った公家装束の人々が次第に集まり始め、そしていよいよ、氏子の暮らす場所へ神霊の宿った神輿が出発。
そのときの荘厳さはすごかった。通りに響き渡る人々の唄声に鳥肌が立ち。窓から眺めながら、信仰の根元はこういうものなのかなあ、などと寝不足の頭でぼんやり考えたり。
その朝から2日間は、ぴーひゃらぴーひゃら、わっしょいわっしょいのにぎやかな天神様だった。
今でこそ多くの人でにぎわう天神様だが、昭和の中頃までは厳しい経営が続いていたようだ。高度成長期、学問にご利益があるとの噂が噂を呼び、現在のような合格祈願の聖地になったのだとか。
湯島界隈の歴史については、GONZO SHOUTSというサイトが詳しい。花街を中心にした記事だが、湯島天神周辺のもつ空気感がよく出ていると思う。江戸時代には陰間茶屋があったり、昭和の初めごろまで花街が広がっていたりしながらも、なんとなく地味で、近くの上野のようなぎらぎらした感じがない。ちなみに私の住んでいた場所も、昔は待合や置屋の類だったもよう。
湯島の思い出で最後に挙げたいのが、坂。湯島天神は、本郷台地と呼ばれる白山・靖国・不忍通りに囲まれた舌状の台地上にある。天神様のお隣にある私の住まいも台地上なので、歩いて出かけると帰りはもれなく坂道を登ることになる。後楽園方面へ抜けるにも坂、御茶ノ水へも秋葉原へも坂。最寄りの買い物場所である上野との間にも坂。この坂道がどこを選んでも急なのだ。
初めはこの台地の存在を知らず、どこかに楽な道筋があるのではないかと試行錯誤したのだが、どこも坂。台地の存在を知ったあとは、なんだかどうでもよくなり、よく行く上野へは、近道ながらも一番の急坂である湯島天神の男坂を利用していた。
この男坂は、うっかりすると転げ落ちそうなほど急な階段なのだが、江戸時代にも存在していたそうだ。さあ登るぞと坂の上の鳥居を見上げると、昔の人はどんな思いでこの坂を登っていたのかなと、いつも心がタイムスリップしてしまうのだった。